ブラックコーヒー

熱いブラックコーヒーと、お気に入りの煙草。
この二つを口にする瞬間が、私にとってのオアシスだ。

こんなキャッチコピーを頭に浮かべ、私は人知れずほくそ笑む。

ここは、オフィスから歩いて1分もしない場所にあるカフェ。
1杯200円の、いささか粗末な味のブラックを飲んでいる。

山積している仕事の合間を縫ってここでゆっくりとすること。
これが至上の楽しみなのである。


そして、私にはもう一つ楽しみがある。
それは、人間観察だ。

私は、平日はほぼ毎日ここで過ごす時間をとっているのだが、
私が来る時間帯には、必ずある女性店員がいる。ただの偶然だ。
名前は下山ミカというらしい。姓はネームプレートに書いてあった。名前は同僚がそう呼んでいた。
どうやら大学生であるらしい。同僚との会話から推察できる。
ここから5駅ほど離れた場所に住んでいるらしい。これも同僚との会話から知った。
彼氏はもう1年以上いないらしい。これも同僚と以下略。

彼女は端から見て、美しいわけでも不細工なわけでもない。
ただ、私は何故か彼女のことが気になってしまうのだ。
彼女が好きなわけでは無いと思うが、どうにも注目してしまう。


彼女は今、同僚と世間話をしている。
別に聞くつもりはないのだが、自然と耳に入ってきてしまう。

「でさー、先週のコンパでかっこいい人と知り合ったんだ」
「へえ、よかったじゃん」
「ケンジ君っていうミュージシャンでね、駅前で弾き語りやってるんだって」
「え…」
「今日、夜からやるらしいんだ。仕事終わったらミカも見に行こうよ」
「…その人、白い帽子被ってた?」
「うん。見たことあるの?」
「…うん。よく知ってる」

そこで世間話は終わった。

私は煙草の火を消して、オフィスへと戻ることにした。
仕事を片付けなければ。




その次の日、下山ミカの姿はなかった。
それから先も、彼女がここに来ることはなくなった。


そして私は、ココアを頼むようになる。
なぜなら、苦いものが嫌いだからである。