ゆうわく

毎日、ウォーキングをすることにした。ダイエットのためである。
30を過ぎてやれ飲み会だ、やれ深酒だなどと、身を省みない生活をしたおかげで、2年前に買ったスーツが着られなくなってしまったのだ。

私はお気に入りのスポーツウェアに身を包み、家を出た。

正直な話、辛いしめんどくさい。
そんな自分に鞭を打つかのように足を前に出す。


お決まりのコースを歩いていると、一軒の屋台が視界に入ってきた。
初めて見た。こんなところに珍しい。

漂ってくるおでんの香りが、私の胃を刺激する。

だが、そんな誘惑にも負けず、そこを通り過ぎようとした、その時である。

「あの」

いきなり話しかけられて、私はその声の方を見やる。
声の主は、屋台の主人だった。

「なんですか?」
私がそう聞くと、

「実は、今日初めて屋台をここに出したんですが、いかんせん客がこなくてねぇ。一杯どうですか」

などと言ってくるのである。

「いえ、見ての通り、運動中なもので」

そう私は答える。と、

「そんなこと言わずに。一杯おまけしますから」

そう言って店主は、ジョッキにビールを注ぎだした。

「ちょ…」

私はそれを拒否しようと言葉を出しかけた。が、私は見てしまった。


グラスに注がれる、金色の液体。
純白の泡。
それを認識した途端、のどで炭酸がはじけるような感覚がした。
生唾を飲む。

「どうぞ」

そういって店主は、ジョッキを差し出してきた。

私はそれを押し返すつもりで手を伸ばしたが、無意識のうちに取っ手に手を掛けていた。
ひんやりとした感覚が右手に伝わる。その瞬間、私の中で何かが崩れる音がした。


ぐびぐびと飲み干す。
口内が、食道が、胃が、炭酸とアルコールで満たされていく。

「ぶはぁ!」

なんと、ビールとは、ここまでうまいものだったのか!

「うちのビール、うまいでしょう?」
「はい!」

思わず、良い返事をしてしまった。

うん。ダイエットなんて無理だ。
明日、スーツを新調しよう。
そう思ってから、私は言った。

「もう一杯」