それを意地と呼ぶのかもしれない

妥協とは、何とも耳障りの悪い言葉だ。

どうにも怠惰な響きが含まれるというか、理想を追い求められなかった、もしくは追い切れなかったというか。そんなイメージを受ける。


個人的には、「妥協」と「譲歩」はほぼ同じ意味合いの言葉だと捉えている。
ただ、語感としては「譲歩」の方がずいぶんと良い。こちらの方がなんだか、“思いやり”的なニュアンスがにじみ出ているように思う。
妥協は消極的・悲観的。
譲歩は積極的・楽観的。
そんな気がする。


さて、社会と関わる上で、妥協は、絶対に必要なものだと思う。
誰もが自分の主張を押し通していけるような仕組みなどありはしない。

ここで問題なのは、何に「折り合い」をつけているのか、という部分だ。

これはきっと、自分の気持ち、という部分に違いないはずである。
言い換えるならば、心の問題、ってやつになると思う。


人間、いや、動物である以上、感情やら心やらという、何ともよくわからないものを抱えて生きていくのは当然のことである。
だがしかし、どうにもこの心ってものは厄介であり、合理主義とか実利主義とか、そういった言わば「割り切れる計算」をする余地が無い部分がほとんどである、と思う。
昔の偉い人曰く、「わかっちゃいるけどやめられぬ」といったような、
理解は出来ても納得できないことが、世の中には多々ある。


だからこそ、どこかで折り合いを付けなくてはならない。
つまりは、どこかで自分の心を追いやるような、そんなことが必要になってくる。


それは仕方のないことである。そんなことは百も承知だ。
でも、どこか寂しい。
そんな私の感情にも折り合いを付けなければいけないのだから、
心の問題ってのは、いかんともしがたいものだと、痛感する。


でも、妥協せざるを得ない世界だからこそ、
妥協してはいけない何かを確かに持ってなければいけないのだと、私は思う。
それがきっと、最後の最後で必要になる、その人の芯なのだと、そう考えるのである。