劇団メンバーが去っていくとき

劇団を始めて7年。
色んなことがあった。メンバーの脱退。新メンバーの加入。



<いつかの夏、狛江の河原でやったフルタ丸バーベキュー。星野と相模。なんか好きな写真。>


脱退する時には何かしらの理由があったりするわけで、
そんな話を聞いてると「まぁ、しょうがねぇか」と思ってしまう。
いや、しょうがねぇやと思えない時もあるけど。
けど、脱退する流れは避けられないことが多い。
あんなにも丈夫だと思っていた大きなダムが、大雨で決壊するのに似ている。
決壊しないダムなんてない。
小劇団は、20代から30代に向かっていく時にこの現実に直面するのだと思う。
そこをスルーして続ける人間と辞める人間。
僕は人それぞれの人生だと思っているから、辞める人間を否定するつもりはない。
自分の人生は自分の思うように自分が満足できる方向に舵を取ればいいだけの話だ。
北朝鮮ではそうはいかないしね。
そう思っている。ここは日本。好きに生きたらいいんすよー。
メンバーが劇団を脱退する時、そう吞気に思う。
いや、そう思おうとする。
そう思おうとするけど、
「さびしい」
結局、僕はこの4文字に縛られる。
内心はクールぶれない。さびしい。やはり。
脱退したり、辞めていったメンバーたちが今どこで何をしているのか。
分かっている奴もいれば、そうでないのもいる。
たまに「あいつ、何してんのかな」と思うこともある。
夜とか。過去の公演ビデオとか見ると。
そうゆう時に限って、ビデオを見てゲラゲラ笑ってしまう。
「…ちくしょう、こいつおもしれぇな」
声に出すこともある。
しかし、声に出すだけで、そう思うだけで行動には何にも起こさない。
いきなり連絡を取ったりすることもなく、そのまんま。
とりあえず、死んでなければいいやと思うからいいんだ。連絡なんか取らなくても。
2009年、フルタ丸という劇団が存在している。
物理的には下北沢にある。
そこで活動してることが多いから。
去っていったメンバーが「そういえば、フルタ丸、何してんのかな」と思った時に、
フルタ丸が死んでいたくない。
劇団としてそこにありたい。
僕が気にしているのはそれだけだ。
ユニット形態でもプロデュース公演形態でもなく「劇団」という古臭い単語で括られる状態でいたい。だから最近、「劇団フルタ丸」って感じで、劇団を積極的に付けてる。
一時期、ダサいと思ったんだよね。大学を卒業した後だったか。
「劇団なんていう括り嫌だぜ」みたいな。何かあると「フルタ丸」って表記してた。シンプルで得体の知れない感じ。
それを醸しだそうとしていた可能性がある(笑)
でも、実際、劇団なんですよ。フルタ丸は劇団。
それ以上でもそれ以下でもない。
現在、一緒にやってるメンバーがいて、
辞めて行ったけどメンバーだったやつがいるんだから。
劇団。
その一言で括れる。
ありがたい言葉。
僭越ながら、フルタ丸の前に付けさせてもらっている。
本当にそう思うようになった。
劇団フルタ丸。
生き恥をさらして生きて行くことに、僕はもはや何の抵抗も抱いていない。<文・フルタジュン>


★来週のキーワードは「トランプ」です。