030.手練れ感

今回も前項に引き続き、感覚のお話。


「何か技術があるとして、その技術を習熟させるにつれその人の中に生まれるであろう、技術の向上の課程で生まれる、エレガントにその技術を改良させようとする感覚や感情、それを【手練れ感】と名付けたい。」


というのが、この項の話です。



まあ、上記は何がなにやらさっぱり解らない説明ですが、わかりやすく説明するならば、

「【なにか】に慣れてきて、それをかっこよく素早く美しくしようとする気持ちと、そのかっこよさに浸る感覚」


と言えましょうか。

【なにか】を楽器の演奏・ゲームにおけるキャラクターの操作・乗り物の操縦・カメラワークなどなど、なにか自分のイメージしやすい行動・技術・操作に置き換えるとわかるかもしれません。


人はそういった未知の行動・技術・操作になれてくると、より質の高い動作を目指していくものです。
最初は動かすだけで精一杯であったものも、より早く、正確に、無駄なくこなしていこうとします。
その中で、
「自分は熟練者で、素人や初心者なんかとは違うことをやっている」
という意識の元、習熟=キャリア、積み重ねを背景にいわば<かっこいい言動>をとることを「手練れ感」と呼びたいのです。


飲食店のウェイターだと注文を上手くさばいたり、食器を一度にたくさん片付けたりするといったようなこととか、
映像機器の扱いにおける結線の素早さやケーブルを巻くことの素早さ・美しさといったようなこととか。
端から見ると非常に細かく、そしてどうでもいい自己満足に充ち満ちた感覚ですが、これって技術の熟成に非常に重要な感覚だと思うのです。



何か技術を向上させるのであれば、それには理想の形があるべきで、それを体現した際には満足感が生まれて然るべきだと僕は思います。


「自分、スマートにやっています」


的な感覚。
これ自体は決して悪くないと思うのです。



問題は、この手練れ感に溺れないようにすること。
この陶酔に浸ると、非常に痛々しいものになるので。