038.スポーツの見方とは、その5

スポーツは、その競技だけではない部分を要求され、利用されやすいものです。国威発揚だとか、因縁の決着だとか。ナショナリズムだとかイデオロギーだとかの代理戦争の場として考えられることも少なくはありません。というより、そう言ったモデルとして非常に利用しやすい一種の媒体なのです。


というのは、スポーツは


個人なりチームなり団体なりが理念や哲学を元に競技を行っている


そして


それらが対決して【勝ち負け】という結果が残る


という性質があるわけです。要は、主張や比較などの舌戦では決着がつかないことがらに対し、わかりやすく白黒を付けてくれるモノとしてスポーツを利用することができるわけです。
個人的には、そう言う側面がそのスポーツ自体を盛り上げる要素であるので、仕方のないことだとも思います。というか、そんなバックボーンがあるからこそ応援したくなるわけなので、これは積極的に排除すべきことではないとさえ思います。



ただ、厄介なのはこの構造に加えて「個人間での主観の押し付け合い」が生まれ、さらには「相手のこき下ろしに過剰になる」傾向があることです。
これはデリケートかつエキサイトしやすいことなのでうかつに文字にはできないことではありますが・・・


例えば「サッカー日本代表において、トルシエジーコ岡田武史オシム、誰が最も優れた監督だったのか?」という定義があったとしましょう。
このような議論に結論を付けることははっきり言って不可能です。だって、現実にこの人達が直接の雌雄を決めることは出来ないのですから。でも、過去の実績からそれを結論づけることも可能ではあるんです。W杯の順位とか勝率とか、はたまた観客動員とか注目度とか、本当に様々な要素があります。だからこそ、議論をする余地が生まれてしまう。そこから先は泥沼の議論であり、論点をどこに置くのかによって評価が変わってくる、非常に不毛な状況が生じるのです。結果として、相手に自分の主張を押しつけ合うことになってしまう。


スポーツの見方とは、かくもややこしいものなのです。


でも、それはどうなの?スポーツを応援するのってそんなめんどくさいことなの?って思いませんか?


結論であるその6へ。