045.スマートフォンについて考える その5
技術を体得する上で必要なのは<必要>である。
無駄に哲学めいた字面ではありますが僕はそう思っています。
つまり、生活する上で必要だと思わなければ、それに対して時間や労力をかけたくない、という心理が存在すると思います。
高齢、老齢の方はフェイスブックを必要とするでしょうか?
ツイッターを必要とするでしょうか?
webで情報を集める体制を必要とするでしょうか?
答えは「人によりけり」でしょう。もちろん必要とする人も少なからずいます。が、それが多数派かと言ったら、決してそうではない。
歳を重ねるにつれて、生活のスタイルは洗練されていきます。洗練とは「無駄をそぎ落とすこと」ですから、その人に合った、その人が思う必要なことだけが残っていきます。
逆に言えば、その人が必要だと思わないことは、その人の中に残らないわけです。だから新しい技術を受け入れようとはしない人が出てくるわけです。
ですが、文化は確実に変容していきます。そして、新しい文化は古い文化を淘汰していきます。そしてそれに取り残された人はいわゆる「時代遅れ」の人間になってしまうのです。
きっと過去幾度となく、それこそ石器の時代からこの世代交代の流れはあったことでしょう。
とか言ってた原始人がきっといたに違いありません。
話がまたも逸れましたが・・・w
さて、それを踏まえた上で、いわゆる旧時代の人に対するアプローチは存在すべきでしょうか?スマホを必要としない人に対して、それに「勉強してでも、価値観を変えてでもスマホは使えた方がいいんだよ?」というアプローチは必要でしょうか?
新しい時代の人間が、古い時代の人間に歩み寄る必要はあるのでしょうか?
僕はその必要があると思います。
高齢者、いや、新しい技術に対して乗り気でない人々に対して新しい技術が歩み寄っていくこと。それをないがしろにするとその技術に未来はないと僕は思います。
だって、高齢社会なんだもの。
マジョリティがお年寄りの社会なんだもの
そんな感じの自覚を持ちましょうよ。
というお話でした。
<文・和田宜之>