063.ぶっちゃけfacebookってどうなのよ?!に対する回答例

タイトルでの一本釣りがあざとくいやらしい今日この頃。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。


今回はfacebookに関して、僕の現在の見解を述べてみたいと思います。


僕がfacebookについて本気出して考えてみたのは3月頃のことです。それまではちゃんと注視していませんでした。そうするきっかけになったのは一言で言えば「仕事の関係で」、ということになりますwその経緯や詳細はここでは省略いたしますが。


で、現在の結論から言うと、僕個人にとってfacebookとは


ツイッターとは別ベクトルのコミュニケーション+告知+情報共有+遊びツール>


です。
なので、「ぶっちゃけfacebookってどうなのよ?!」と聞かれたならば


「面白いし便利だし、人によっては何かのワンチャンを見いだせるモノ」


と答えたいと思います。


facebookは原則として実名登録が必要な媒体です。そして、実名登録した方が得られるメリットが多く大きいという、特殊というか不思議な特性を持っています。また、感覚の話として「海外で数多の実績を上げている」部分も無視できない部分だと思っています。


そして、facebookの大きな利点の一つに「狭く深い部分へのアプローチが得意」という側面があります。これは言うなれば「facebookはコアユーザーの獲得に関して、極めて便利である」ということでもあります。


このブログにて以前にも言及したと思いますが、コアユーザーの存在は非常に大事なものだと思っています。どんな事業でもコア→ヘヴィ→ライトユーザー層という順番で展開・進化していくのが順当な流れであると考えます。


つまりは、facebookを用いて、ビジネスの核となるコアユーザーを掴むことができるという流れが広く認知され、広く利用されるようになった瞬間、facebookは時流の正義になるのではないかと思うのです。そうなった場合に得られるものは、相応に大きなものなのじゃないかと愚考しています。



そうそう予想通りにはならない世の中ではありますが、仮にそうなった場合のメリットを追うこともまた一興。そんな風に考えつつ、劇団のfacebookコンテンツを整備していたりするのですw

062.事故は未然に防げ!

と言うタイトルで、原発問題に関心のある人を釣ってみることはできないだろうか・・・


なんて安易な考えでタイトルをぶち上げた、わけではありませんw



今回僕が言いたいのは、予防のすばらしさ、および重要さについて、です。


予防とはアクシデントやトラブルを未然に防ぐことです。それはつまり、そういったマイナスの事柄を回避する、無いものとするということでもあります。


ということは、「ミスを挽回する必要がなくなる」ことであり、それはつまり「ミスを埋め合わせるための対価を払う必要がなくなる」ということでもあります。


これが、非常に大きい。そう思うようになりました。



具体的に言うならば、健康と言うやつに関して、です。


最近、自分の近しい人が健康を損なう様を見るようになりました。やれ医者に行かねばならないとか、やれ食生活に気をつけるとか、そういう姿をしばしば見るようになりました。かく言う僕も、検査したらなにかしらの項目で危険な数値をたたき出しそうな気がします。。。まま、それはとりあえず棚に上げるとして!


医者とは<患っている人を健康な状態に戻す力添えをする職業>だと大雑把に定義するとして、その力添えを受けるためにはお金と時間を費やすことになります。これが非常に大きいわけです。そういった多大なコストを掛ける瞬間を無くしていくこと、それこそが<予防>の軸を為す考え方というわけです。


健康というのは、あくまで予防に関する身近な具体例に過ぎません。災害とか悪行とかヒューマンエラーとか、そういったものに対しての予防も等しく重要です。

が、悲しいかな、予防とは目に見えづらいものです。大層劇的な効果を持っているにもかかわらず、認知されづらいものなのです。そして、実を結ばない事項が多々あることも事実です。がっちり予防策を張り巡らせておいたのに、結果としてトラブルは発生しませんでした、なんてことも多々あります。それらの結果として、予防を軽んじる見方も生じてしまうことにもなり得るわけです。なんて虚しいのでしょうか。


大切なのは、追い込まれない状況作り。生じうるトラブルに対する予防策を練っておくこと。そう思うのです。

061.船を造るか 島を目指すか

海があるとします。そして、その海には島があるとし、あなたには船を造る能力があるとします。


ここで、
「自分には船を造る能力がある。だから、船を造ってあの島に行く」
というケースと
「自分はあの島に行きたい。だから、船を造るのだ」
というケースが生じると思います。
この二つ、成功の形はどちらも「船で島にたどり着く」ことでありますが、その思考や課程には、とてつもなく大きい差があるのです。



唐突な話し出しですが、今回のテーマはというと、
「手段と目標は、どちらが先に立つべきか」
です。


自分もそうなのですが、多くの人は自分の持っているもの、自分の出来ることを基準に目標を立てると思います。つまり、手段が先に立ちやすいと思います。
が、船と島の例えで言うなれば、船から造り始めるのは極めて無謀であると言えます。船を造れるとして、必要な人員は?積むべき物資は?アクシデントに対する備えは?果たしてそれらを全て持っていたとして、目指すべき島にたどり着けるのか?その根拠は?


大事なのは、目標に合わせた準備をすることです。あの島に行くにはどれだけの装備が必要か、どんな規模の船を造る必要があるか、そういったものを具体的に算出し、それに合わせて足りない物を補うこと。それにより目標を達成するための手段を明確にすることができるようになるわけです。

以上のことより、私たちは目標を先に立て、手段を決めていくべきだと思います!







と、ここまでが理想論。
現実はそんなに単純ではありません。


「○○がしたい」「○○になりたい」といった目標を持っていたとしても、そのために必要な物が何かを正確に判別していくことが出来る人などそうそういません。よしんばその取捨選択が出来たとしても、実際にそれが遂行出来るかどうかはまた別の話になります。


では、大事なことは一体何か?


それは、「何度もやってみること」に他ならないと思います。


失敗したとしても生還さえ出来れば、次のチャンスがある。その機会がきたら、失敗を活かす。はたまた、たまたまうまくいって島にたどり着くことが出来るかもしれない。その島からは、違う島が見えるかもしれない。


最もおろかなのは、船を設計して造らないこと。そして、良さそうな島を探し続けること。つまり、行動をしないことです。


とりあえず、どこかへ行ってみよう。そしたら、必ずわかることがある。そう思っています。

060.おっさん力

僕はよく、実年齢よりも多く年を取っているように見られます。初対面の人に年齢を当てられたことは1回しかありませんw


見た目の感じと低めのテンション、語り口などからそう見られるのだろうと思っていたのですが、最近になって思うことがあります。


それは、年相応に見られないのは、僕の持つ<おっさん力>の高さ故なのだろう、と。


「大人びている」とか「子供じみている」とかよく言いますよね。それっていろいろな要素の集合体であると思っています。挙例するならば服装、ファッション、性格、趣味嗜好、しゃべり方などなど、本当に多くの要素があると思います。そういった年齢を類推する要素の一つに、「おっさんっぽい言動を取るか否か」というものがあると思います。
もう少し言うならば、「ズボラな言動」やら「細かいことはどうでもいいわ」といったような、細部をあまり気にしない言動とでも言えるのではないでしょうか。


おっさん力を持ち合わせているかどうか判断する基準の一つに、「金がありゃなんとかなる」といった感じの思考体系があるように思います。終電を逃したときとか、ぶらっと遊びに行くときとか。逆に、「電車賃がもったいないので歩いて帰ります」なんて言葉には、おっさん力の欠片もありません。


で、何が言いたいのかというと、おっさん力の高い人間は手強いということです。おっさんは人の話をあんまり聞きませんw 「○○なんですけど、いいんですか?」と言ったような問題点(非合理的なやり方)への指摘に対して、「別にいい」「たいした問題じゃない」と言ったような切り返しをします。「オレ流でやりゃ間違いないって!」とでも言うような。細かい問題を本当に気にしないのです。


これには善し悪しがありますが、言ってしまえばこれは「不合理・非効率的ではあるが、大きな目で見れば些末な問題に対し、意識を割かない」ということでもあります。何を問題とするか、何を問題としないか、この取捨選択が正確かつ迅速であればあるほど、無駄な思考をしなくて済むようになるわけです。それの洗練された姿がおっさん的なある意味パワフルな思考体系になるのではないかと、そう思うのです。おっさんはすごい。


なんて言いつつ、僕はおっさん呼ばわりされたくはない。実際の話。

059.2012年4月まとめ

もう2日ほど過ぎてますが、4月のまとめをばさせていただきます。

といいたいところですが、今現在徳島に出張中かつ一日の仕事を終えてご飯をたらふく食べた後なので、いまいち思い出すことが出来ません。


少なくとも言えることが1つ。このブログの執筆をサボりまくっているということです。


色々事情があったわけですが、そんなことを言い出したらきりがないので、単純に怠けていたという結論にならざるをえません。実際誰が得をするのかよくわからないこのブログではありますが、更新が停滞がちということで、さらにその価値が下がっていると言わざるを得ません。365日で300更新を目指すとぶち上げたのに、既に野球で言う借金生活のような状況に。これはおそろしい。ブログを書くだけで借金の恐ろしさを体感するという、特殊な経験をしています。


個人的には、花粉症も終息し始め、暖かくもなってきたところで、本格的にダイエットを始めたい、というか始めました。内容は、隙を見て6キロ強走るというもの。なんとか年間で合計200キロは走りたい・・・なんて言うと二重の借金生活が始まるからやめておきますw

来月(もう今月ですがw)は徳島出張でのイベントと劇団の本公演、さらには新しく始まる事業が動き出すなどと、やたら忙しくなりそうです。いいことだ。


その隙を見て、飲みに行きたい!たらふく!

058.演劇の魅力! 見る側編その3

演劇を見る時の魅力、役者、脚本と来て、ここで語るのは「演出」です。


演出、それはすなわち、どう見せるかの指示です。
演劇が面白くなるかそうでないかは、ここに依る部分が非常に大きいです。出来を左右する最大のポジションといっても過言ではないでしょう。


ただ、日常生活において演出の善し悪しに触れる機会はそう多くはないと思います。なので、簡単な具体例を考えてみましょう。


恋人同士が別れ話をしている。言い合いをしている内に、一人の人物が現れこう言った。「大変なことが起こった」


こんなシナリオ=脚本があるとして、これはどういう風に演技をするのがいいのか?それを考える人が演出家であったりします。


仮に上記のシチュエーションで男と女が激しく言い合い、そこに飛び込んできた人物がまくし立てるように「大変なことが起こった!」と言わせるように演出した場合と、
男女が淡々とお互いの悪い部分を言い合う中で、さも沈痛な面持ちの人間が静かに「大変なことが起こった…」と切り出すよう演出した場合と、
どちらも筋書きは同じなのに、観客が受ける印象は大きく違います。


この脚本をいかに料理するか?というある意味で「料理人」のような側面の仕事を受け持つことが演出家というわけです。


僕のおすすめの観劇方法の一つとして、「自分が演出家だったらこうする」ということを考えながら見る、というものがあります。

その台詞は激昂して言うよりも敢えて冷静に言った方が場が引き締まるんだ!などと思いながら観劇する、というわけです。そんな風な見方をしていると演出家の意図を汲んで舞台を俯瞰で見ることが出来るようになったりします。


また、その上で「自分が演出家だとして、こんな発想は無かったわ!」なんて見方も面白かったりします。自分に無い視点を認識することで、あらたな物の見方に出会うこともままあります。


これは舞台だけでなく映画やアニメ、コントやバラエティ番組など様々な「見せ物」に数多く存在するものです。


演出とはなんぞや?そんな意識をもって物事に当たるのも面白い人生なのではないでしょうか?

なんてまとめてみたり。


<文・和田宜之>

057.演劇の魅力! 見る側編その2

さて、演劇の魅力!見る側編その2。


今回は、役者ではない部分についてクローズアップしたいと思います。それは「脚本」です。


脚本は言わずもがな、そのお芝居のストーリーです。誰が舞台に出てきて、どんなことをして、結果どうなるか。


この辺に脚本を読み解く知識があるか否かで、演劇の楽しみ方が大きく変わると思います。
なんだか偉そうな語り草ではありますが、なんてことはありません。読み解く知識というのは、脚本作りの根幹、つまり「伏線」と「テーマ/メッセージ」の存在を知っておくことです。


伏線についての説明はこの際省きますが、こと演劇の脚本における伏線は、ある意味で「作り手からの挑戦状」だと捉えると面白いと面居ます。051項でも述べましたが、脚本家は「あ〜なるほどねぇ」とお客さんに納得感を与えるための仕掛けを打ってくるわけです。なので逆に観る側は、この筋書きは、きっと後々に効いてくるタイプのやつだ!なんて思いながら観劇するのも楽しいものです。


そしてもう一つはテーマ/メッセージです。
ぶっちゃけ、これが無い演劇は存在しないと思っています。何故ならば、解釈は無限ですから。人間は意味のないことでも解釈することで存在しないものを作り出してしまうからです。


まあ、そんな哲学めいた話は別の機会にするとして、演劇において語られるテーマは様々です。本当に様々。ですが、演劇の特性の一つとして、「多数派には向けられないメッセージ」があったりすると思います。


演劇を本気でやろうなんて考える人は大概常識外れというか、独特の感性を持っていると思います。よく言えば個性的な、ある意味で新鮮な感性に触れる機会は、なかなか無いものです。そういったものが充満するのが劇場なのです。言うなれば「街中の異空間」なんです、舞台って奴は。


そんなメッセージを表現する場を演劇に求めた、求めてしまった人が演劇の脚本家だったりするわけです。


ちょっと美化しすぎでしょうかw


<文・和田宜之>